何か楽しめることを探し続けるえんすうじん。
目の前の何かに名前をつけてみたら、意外とツボった。
懐かしのアニメでも、頼れる老戦士に対し女性が
「どうかこの子の名付け親になってくださいませ」と依頼し、
それに「良い名を贈らせてもらうよ」と応えるいうやりとりがある。
見ていた当時のえんすうじんは「うわ!責任重大だ」と内心慌てたが
もっと気楽でよいなら、名前を付けること自体は楽しいと思っていた。
そもそも以前より「Godfather(ゴッドファーザー)」
という語感にカッコ良さを感じていたが
そちらだと本来は宗教的な”名付け親”という意味になり、
名付けたもの対する「あなたの名付け親ですから私は」という
無言の威圧感を感じる気がする。(おそらく気のせいだ)
無宗教であり、できるかぎり謙虚に生きたいと思っているえんすうじんは
自らを”namer”と名乗ることにし、
この新たな趣味を”give a good name”つまり「GGネーム」と呼ぶことにした。
”naming”では単なる命名。しかしこの趣味の目的は”良い名を授ける”ことだ。
しかし身の回りのものは全てなにかしらの名前がついているため
えんすうじんに命名が許されているものといえば、
「状態プラス名詞」か「固有名詞」のどちらかだ。
「状態プラス名詞」とは、例えば”猫”はすでに”猫”としてその名が決定しているが
”丸くなっている猫”というものを指すのに”ニャンモナイト”と呼ばれることがある。
これが 「状態プラス名詞」に対する命名である。
特に長々と言いまわさなくてはいけないものを、一言で伝えることが出来れば
生活においても便利なのではなかろうかと、えんすうじんは考えた。
また固有名詞に関しては、その辺の地域猫を勝手に命名するのも良いかもしれないが
それはたいして楽しくない。猫はもともと固有名詞で呼ばれることが多く、
ここで名付けた名前は今後”使用”されることになるだろう。
しかしネーミングは”名前を付けること”自体が主役でなければならないのだ。
便宜上でされることは趣味ではない。
ここで固有名詞をつけるに値するのは、家具や衣服など本来固有名詞を持たぬものか
文学者がダラダラと長文で(失礼な!)言い表してきた感情や情景などだ。
ルールは2つ。
1つ。人に話すものではない。勝手に名付けた名前を、そ
れが通じようと通じまいと使うのは、タダの痛い人がすることだ。
全ての娯楽にいえることだが、自分の楽しみを人に強要することがあってはならない。
2つ、先に述べたとおり、命名することによって便利になるのは副次的な産物だ。
一番の目的は命名するという行為を十分に堪能し楽しむこと。
もちろんこれも全ての趣味にいえるが、そこには苦労がつきものかもしれない。
しかしその苦労の後には達成感や面白さがなくては、とうてい趣味にはならないのだ。
イマドキだと、うっかりマスクをつけ忘れた状態で、家から出てしまったり
飲み物を取るために離席してしまった場合の焦燥感に対する言葉が必要だ。
口元の解放感とともに動揺し焦り周囲を素早く確認する、あの感じ。
「スカ焦り」ではなかろうか。口元スカスカで焦る!みたいな。
インターネットで買い物をした後、
画面の隅にそれに関連する商品をお勧めされることになる。
(このサイトもそうだ!「ターゲティング広告」と呼ばれている)
家電を買ったらその家電の商品紹介が延々と続くので
えんすうじんは1台で良いのだが、と困惑している。
そこでこの状態を「おススメ芋づる」と名付けた、が解決はしなかった。
固有名詞としては、部屋に現れたクモ氏に分電くんと名付けた。
分電盤のあたりを一日中あるきまわっていたからだ。
忘れがちなグッズや、
使用するときに不快感があるものに名付けると
忘れなかったり腹立ちが軽減される効果があった。
が、GGネームの本来の楽しみは
その名を利用するためでも効能を得るためでもない。
あくまでも命名を楽しむことが重要である。
”良い名”かどうかも主観に過ぎない。
そうこう続けるうちに、
えんすうじんは魚や動物の名前がかなり短絡的であることに
それなりの意義を感じるようになった。
みたまんまの特徴がなまえになっているもの、
モドキとさえ呼ばれてしまうもの、
そういったものを生む大変さと、
意味なんてないけど文字を組み合わせたものを生む大変さは
それぞれ違う大変さなんだなあ、と思ったのだった。